味な平和ゼミナール

12月19日(日)志太榛原地区教育研究集会「味な平和ゼミナール」in島田

「味平」は今年でなんと20回目。志太榛原地区の立派な伝統行事です。

今年の平和の部は、島田樟誠高校の小林大治郎先生を招いて、

「原爆投下訓練と島田空襲」講演と「朗読劇」のワークショップ
2011_1219味平 小林氏

(1)はじめに

1989年,3人の社会科教員が島田の隠れた歴史を掘ろうと思い立った。きっかけは,教科書通りの知識に飽き足らず,授業を聞かない目の前の手強い生徒たちと,分かり易く楽しい教材で,何とかして学びの面白さをつかませたい,ともがく教師の存在であった。当時の彼らは面倒くさがりで中々腰は上げないが,気に入らない事に対しては納得するまで真剣な目で掴み掛ってくる真っ直ぐさがあり,裏返せばちょっとしたきっかけさえあればぐんぐん伸びていく素質を感じさせた。

島田駅から北へ300メートル程のところに扇町公園があり,そこに1981年、町内の人たちの手で『平和の礎』という石碑が建てられた。裏には47名の名が刻まれている。ここは66年前,終戦直前の暑い夏の朝,アメリカ軍の『超空の要塞』B29がたった一機で現れ,一発だけの大型爆弾を投下した爆心地である。ところが手掛かりとした『島田市史」にはわずか5行の記述しかなかった。

『島田市史』

1945年7月26日 午前8時34分には,扇町地内へ爆弾を投下され,即死者33名,負傷者154名,全壊家屋60戸,半壊家屋65戸,小破家屋300余戸という被害を受け,町内は大混乱におちいり,恐怖におののいて疎開者が増加し,取り片付けも手につかない状態であった。

(2)フィールドワーク

市史の記述はあまりにあっさりと書かれ,実態が分からない。そこで生徒たちに『戦争を知らない子供達』同志で調査研究チームを組み,フィールドワークに出掛けよう,と呼びかけた。この地はふだん彼らの登下校の通過点である。爆撃で上半分が吹き飛ばされた銀杏の木も,今では毎年葉を茂らせ,普門院の門柱には爆弾の破片がめり込んだ痕跡が残る。住職は「お寺も軋み、墓石も倒れたと聞いています」と言う。生徒たちが「その日のことを聞かせてください」とお願いした時から、今日まで続く活動が始まった。住職は,当時の事は知らないからと,扇町に住む被災者を呼び集めてくれた。

(3)普門院での聞き取り

この時のお寺での出会いがその後の運命を定めた。被災者の方々は『この子たちには語れる…そう思って,初めてあの忌まわしい体験を語る気持ちになりました』とおっしゃった。最初は孫に話しかけるように優しく,しかしやがて40年の封印が解かれると,涙を流し,ものすごい表情で傷口を見せながら「ああ…私たちの話は明日の朝まで続いてしまう」とこぼしつつ,話は留まらなかった。(この時の印象が,後に出版する本『明日までつづく物語』のタイトルになった)

生徒たちは,あまりの生々しさに「おばあちゃん達の話は聞くのがつらいよお」と怯え,「泣きながら話してくれた。でも僕たちの戦争はファミコンの世界,勝てば嬉しいけど,負けたらリセットボタンを押すだけ」と戸惑いを隠せなかった。

体内から出てきた爆弾の破片。こんな小さな破片のため,戦後何十年も体調を崩し苦しみ続けた。

(4)伝える試み

被災者の熱い思いを聞いた私自身も,教室の授業ではうまく伝えることができず,この思いをどうしたらいいのか迷う日々が続いた。そして,悩んだすえ体当たりで始めたのが一人芝居や歌を自作自演することだった。脚本は,当時小4の貞夫少年が主人公。学校の軍事教練中に母や親類6人を失った志村さんの実体験が元である。文化祭で音響や照明など生徒の手を借り,舞台で転げ、叫び、演じた。招待した扇町の方々は「有難う,十分です」とおしってくださったが,どこか不完全燃焼の気持ちが残った。

(5)新事実の発見

1991年6月25日『静岡新聞』朝刊の片隅に小さな記事が載った。最初は自分たちの目を疑った。『終戦直前,島田に1万ポンド爆弾 原爆投下訓練だった?」この記事がきっかけで「春日井の戦争を記録する会」と出会い,先生たちのご厚意で,アメリカ軍第509混成軍団の特殊作戦任務報告書を入手した。その「空からの証言」から原爆投下の新たな事実が明らかにされた。この爆弾は,長崎に落とされた「プルトニウム原子爆弾・ファットマン」と同じ形,同じ重量の爆弾であり,本物と見分けるため黄色に着色されパンプキンと呼ばれていた。攻撃機が原爆を安全に、かつ正確に落とすため,島田はその練習台とされたのである。

(6)生徒の変化

私たちは「地上の証言」の悲痛な叫びに対する「空からの証言」の冷徹さに憤りを隠せなかった。勉強嫌いを自認していたはずの生徒たちは,「これは絶対聞き捨てにはできない」と日ごとに変化を見せた。こうした聞き取りや調査活動は,その後4代に渡り続いた。

同じパンプキン爆弾が投下された焼津と浜松へのフィールドワーク,文化祭での『冊子』づくり,被災体験者を招いた講演会,爆弾の模型製作,そして本の出版,慰霊祭での平和の誓い宣言・・・。高校生活が忙しくも充実した日々となった。自らの意志で動き,頼もしさが惨み始めた頃,テレビ取材があった。半日の取材なのに番組はたった3分。録画を見た後のひと時,論争が起こった。「広島・長崎はみんな知っていても島田が練習だった事は知らない。もっと知らせるべきだ。知らなければ戦争の事を考えない。でも知れば戦争を止める力になるんじゃないか」というA君の発言にみんながうなずく中,B君は「でもそんなに簡単じゃない。テレビや新聞でいくら言っても一人ひとりが本当に戦争をやらないと思わなければ止まらない。知っているだけじゃダメ。一人ひとりの覚悟がどれだけ強いかだと思う」と発言。しばらく沈黙の後,C君が「でも僕たちだってこの活動をしなかったら戦争の事を考えたりしなかった,あっちこっち出掛けて話をしてもらったから考えた。みんなだってきっと同じだよ」と発言。活動を通じたからこそ深く共感し合えた瞬間であった。

(7)演劇の創作

何度目かの聞き取りの後,一人の生徒が創作劇「聖戦の果てに」を書き下ろした。この有志劇団「青空」の活動は、文化祭から老人ホームでの公演へと広がった。この時、脚本・演出をしたD君は「自分が実際に空襲を受けたような気がし,戦争を許さないという気持ちで書きました。」と話した。役者をやったE君は終演後「とにかくまじめにうれしかった。これほどまでに素直に喜べた経験などいままでにない。」と語った。その年彼らは卒業したが、翌年「青空」劇団員の遺言どおり演劇同好会が創設された。そして2年後『聖戦の果てに』は後輩たちにより島田市プラザおおるりの舞台で,初代劇団員や被災者が見守る中,再演された。

以来19年間存続している演劇部は,自ら考え,責任を持ち,連帯して活動する方針を貫いてきた。テーマこそ異なるが,ずっと創作劇を舞台にかけるのも「青空」から続く伝統である。地域の歴史,そして地域の人たちとの出会いは,思いがけない場をもたらしてくれた。

卒業して2年後,二十歳になった「青空」に手紙で宿題を出してみた。あの頃を振り返りどう思うかである。劇団ひまわりに入ったD君は「自分の台本を初めて劇にした事は,戦争に対する認識を変えた。それまで戦争は人が一つの失敗をバネに進んでいく過程に過ぎない位にしか思っていなかったが,そんな事で済まないことを聞き取りで教わった。主人公に成り切って書いているうちに,二度とこんな事をするな!上は命令で済むが下の方は勝っても負けてもこうなっちゃうんだぞ,と怒りがこみ上げてきた」と書いた。就職したE君は「平和な世に生まれ,戦争の悲惨さを知るのは無理な話かもしれません。たかが想像がつく程度では本当に知った事にならないと思います。戦争はとてつもない事とは分かっていても,どうしても自分とは無縁のもののように思えてしまい,上司に怒られる事の方がよっぽど怖い毎日です。けれど,いくら形だけだったにせよ,戦争をテーマにした演劇に参加できた事は高校時代の唯一の誇りに思える経験でした』と返事をくれた。

(8)「島田朗読の会」との出会い

20年程前,空襲の話を聞き,パンプキンの模型を作り,舞台で演じた高校生は,今や家庭を持ち社会の役割を担い暮らしている。けれど,今でも会えばあの時夢中で活動した話を昨日の事のように鮮明に語り出す。だがもう一度聞き取りからと思っても時の流れには抗えない。当時を知る方々は物故者になられ,体に障害を抱え始めている。戦争を伝える活動も新しい工夫が求められている。

そんな折2007年春,『島田朗読の会』座長,西岡いつ子さんから電話があった。島田朗読の会は,朗読という表現方法を通して,作品の持つ芸術性と文学の味わいを聴衆と分かち合い,併せて自己を表現する喜びを感じ取る目的で発足し,上は80代から下は40代の12人からなる朗読劇団である。 「今度の8月15日,島田市平和記念式典で,島田空襲を脚本に朗読公演をすることになり,生徒さんとまとめた本を読み脚本にしました。参考にお話を聞かせてくれませんか」という。この時私は,かつてお話を聞いた側がそれを伝える側に立つ時代になった事に感慨を覚えつつ,胸の奥の方にある種の使命感が芽生え始めた。

私は,朗読の会の人たちに,証言を聞いた当時の語りの気迫や聞いた際の衝撃を伝えた。すると「先生も一緒にやりませんか」と言う。しばし迷ったが,構成も語りも素晴らしく,また,脚本中に自分自身の母が登場する。母は爆弾の音を聞き,地面に伏せて助かった。当時の母 の日記には「白昼こんな爆弾を許さない。私も一人でも殺して死のう」とあった。今,私が生きて存在する事自体が奇跡に思え,この活動はやるべき事だと決心した。

2011_1219味平 講演会(9)朗読劇『ムクの大木の下で』

現在,ムクの木は区画整理のためなくなっているが,当時爆心地近くの横山さん宅の庭にあり,この大木の下ではいつも子供達の遊ぶ姿があった。爆撃直後この木に髪の毛や肉片が引っ掛かり燃えていた。私は,この爆撃で一瞬にして命を奪われ,家も家財も何もかも失い心と体に大きな傷を負いながら必死で生きた人々の事を決して風化させてはならない,と決意して臨んだ。

しかし,稽古が始まってからは戸惑いの連続であった。「そこに千切れた手が見えない?ほら人々の叫びを聞いて下さい!」戦争体験のない者が戦争を伝えるため,被災者の目や耳になり感覚を研ぎ済まさなくてはならない。朗読とは言えただ立って本を読むのではなく,B29の爆音や爆発音,照明の中,当時の衣装で焼け跡をさまよい,遺族を捜し,嘆き歩く姿を全身で表す演出手法である。

脚本は,生徒と共に本にまとめる際,地上からの証言を「機影・投下・昨裂・惨状・残された者」と時間軸で整理した仕事が生かされている。そして,米軍の冷徹な作戦目的や評価など「空からの証言」を織り交ぜ,劇が進行する。

貨物列車でやっとの思いで島田へ帰ると,家も家族も失っていた男性。吹き飛ばされ落ちた井戸から這い上がる母親。終戦後,地面に腸のような血がシミになり残っていた頃「島田の目抜きのとこなら大変だっけ,扇町だでええっけなあ」と前を通る中年の男に言われ歯を食いしばった遺族。10年近く続いた保障のないバラック暮らし。手術を受け大動脈の横から摘出した破片を持って市役所へ行き,「ここは広島じゃないだから」と突っ返された被災者…。扇町の人たちは,戦後の復興期「幸せな人を見ると無性に腹が立つ」という心根を改悟し,克服して静かに人生を歩んできた。劇の最後,「私は,人は憎みません。戦争を憎みます」と結ばれ,戦争は二度としてはならないと被災者の熱い思いを吹き込み,幕が下りる。

(10)生徒の学んだもの

劇の間50分近く,梅雨の暑い季節も,真冬でも体育館に座る中学生は一言もしゃべらず真剣に見入ってくれた。こうして3年を掛け,島田市内全ての中学校で公演した。そして昨年,島田樟誠高校で行われた際には,生徒たちが事前学習用の資料や壁新聞を作成し,公演当日の司会,照明,音響,お礼の言葉等全ての進行役を引き受けた。

生徒の感想

祖父母の家が扇町の近くにあるので,昔,戦時中に,島田に爆弾が落とされたという事は聞いた事がありました。でも,その時,どんな状況で,といった詳しい事は知りませんでした。この劇で一つ一つの言葉がリアルで,頭にありありとその情景が浮かんできて心が痛みました。普段私たちが何気なく生活しているという事がどんなに幸せで,そして,どんなに戦時中の人々が望んだ事だろうか,そんな事を感じました。戦争の事をもっとよく知って二度とこんな事が起こらない事を願います。(島田市立初倉中学校3年Fさん)

島田朗読の会の皆さんの迫真の演技に圧倒されるばかりでした。戦争がどんなに愚かなものなのかよく判りました。そして,僕たちの先輩が調べた事が元になっていると知り,島田に爆弾が落とされた事を知らない人たちにも,この事を知ってもらうために,僕たちもこれから伝えていかなくてはと思いました。今日は有意義な体験ができました。 (島田樟誠高等学校 3年G君)

今後の課題

空襲の被災者も,それを語り継ぐ朗読の会のメンバーも等しく高齢化の波に襲われている。今後は「聞き取り」から「伝える活動」へと,中・高校生など若い世代に継承し,「新たな証言者」として育成していく計画である。

終わりに

地域の歴史を掘り,地域の人たちに支えられ,生徒と共に学び活動する中で生まれた「自ら考え,責任を持って動き,助け合える人材に育てたい」という思いは,年々確かなものになっている。今年も大学で演劇部を立ち上げた者や,自主公演の招待状を持った卒業生がたくましくなった姿で来校する。こうした遺産をこれからも様々な活動で大切にし,ライフワークとして取り組んでいきたい。

続いて、小林大治郎氏によるワークショップ

朗読劇「ムクの大木の下で」を参加者で演じました。
2011_1219味平 ワークショップ
「私やあ一旦防空壕に避難してました。ちいっとたって、扇町が爆撃されたと聞かされました。そこにゃあ私んちんあります。夢中で駆け出いたです。大井神社を通り抜けると、神社の裏門の根元に、白髪んまじったおばあさんの首だけん転がってました。「あっ、首!」と思ったとたん、ああ足んすくんじやって。

でもその辺の建物あちぃっと傷んでる程度だっただけえが、ひとつ小路を曲がったとたん、泣き叫ぶ声やら、家の壊れた誇りやらでぜんぶん狂ってました。

家のあたりにたどり着いたちきにゃあ、あたりゃあほこりと血のにおいでむせかえっていました。そんな中で私の母あ、弟らの名前を呼んで半狂乱になってました。私ゃあ母を落ち着かせるため大声で叱りつけただけえが、なんて言っただか自分でも思い出せません。

母と二人でけが人を運んだ病院にとんでったら、そこにゃあ、むしろおかぶせたたあっくさんの死体が横たわってました。弟らじゃないかと思ってむしろを一枚一枚めくっていきました。見る死体の全部ん、血、ほこり、泥で真あっ黒くなって全然見分けんつかんけ。

そん中に、頭に野球ボールぐらいの穴んあいて死んでたお婆さんがいたっけ。その人あ腕ん中に、五、六歳の孫だらいねえ、子どもをしいっかり抱いていました。きっと、必死で孫を守ろうとしたずら。その子どもも顔ん血だらけで死んでました。

そのあと、弟らん消息ん分り安心したんだけえが、うちの裏に住んでたいとこのひとりん爆風で8メートルくらい吹っ飛ばされて、死んだこんがわかりました。」

被 ばくした人々は人間としての自分を見失うことはありませんでした。一生懸命前向きに生きて、生きて、生き抜こうとしました。

「その年の暮れから私ぁ両松葉づえで歩行訓練をすることになりました。次の年には一人歩きもできるように回復しました。そんな歩行練習の途中の晩です。明るい電燈の下でよそ様の家庭ん家族そろって晩げのお膳についているとこお見ると、うらやましくて、ねたましくてたまらんけ。この衆らもあたしとおんなじ境遇ならどんなにいいか!などと思ったりしました。人の幸せをねたんだり憎しみょうもったりするっちゅうのは、よこしまな恐ろしい心です。あたしにいつそんな悪魔がすみついただか…。この戦争は、私の心と体にこんなにも大きな爪痕を残いたです。

この日本の国にゃあ私んみたいな境遇の人んたあっくさんいることだら。日本だけじゃなっこう、中国や東南アジアの国にも、どんだけたくさんの衆が、毎日毎日、深い悲しみや憤りに明け暮れていることだか。」

最後の圧巻の部分に、演技を超えた涙が・・・。

ピースメーカー「ダッシュ」の迫力ある演奏

2011_1219味平 ダッシュ

 

 

 

 

第五福竜丸「ビキニ事件」朗読劇

2011_1219味平 朗読劇

 

 

 

 

 

そして、味の部
2011_1219味平 宴会 おでん、手作りしゅうまい、カキなべ、さしみ、アジとホッケとマグロのカマの炭火焼き、ホタテとカキとエビの鉄板焼き、お好み焼き、とろろ汁、そしてマグロのカブト煮と、超豪華。

 

 

 

そして、新しい仲間が!!!
2011_1219味平 加入

 

 

 

 

 

参加者約30人、高校生や若い衆が元気な

決して「地味な」ではなく「味な平和ゼミナール」でした。

投稿日: | カテゴリー:トピックス, 平和, 教育文化 |