教育のつどい 千葉

8月19日から21日まで、「みんなで21世紀の未来をひらく 教育のつどい」に参加してきました。
千葉県松戸市 千駄堀の松戸市民文化会館「森のホール21」
新京成線の八柱駅で「ウヨク」?の歓迎。「渋滞をおこして市民に迷惑をかけ、警察を動員させて税金を無駄遣いさせているのは、ゼンキョーだ!!」と。土砂降りの雨の中、森のホールへ。
2011_0819森のホール雨

2011_0819森のホール雨

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1500人は収容できる立派な大ホール
2011_0819ホール

 

 

 

 

 

オープニングは地元の企画 音楽物語「花のふるさと」
房総半島で戦時中、食糧増産のため花の栽培をやめさせようとする軍部に抵抗した花卉栽培農家の苦悩とたたかい。
2011_0819音楽物語

 

 

 

 

 

釜石地方に伝わる「虎舞」 段ボールか何かで作った手作りの虎がかわいい
2011_0819虎舞

 

 

 

 

 

そして記念講演 中西新太郎氏
「いま、子どもとともに社会をつくる
歴史の分岐点に立って」
2011_0819中西新太郎
「3.11以後、複合災害、あるいは災害の連鎖と言ってもよいような状況になり、生きる場所、就業の機会も奪われ、生活権、生存の危機とともに、その被害者・当事者の発言権が奪われている。

歴史の分岐点と題したが、社会を立て直すという意味で、日本社会のありかたを根本から問い直す必要が正面にあらわれてきたということである。国策原子力政策が、これでよかったのかと疑問にさらされているのである。

その中で新自由主義政策を進めてきた支配側は、「高度防災社会」などと掲げ、集権的な開発をすすめようとしている。「非常時」を掲げ、火事場泥棒的に復興政治を進め、企業の生き残りを理由に恫喝する。

しかし、逆に、若い人たちが歌い、語り始めているように、自治・民主主義に基づいて立て直すこともできる。違った道もありうる。歴史の分岐点とはそういう意味である。

子 どもたちの生命、生活、生きることそのもの、その意味では「ライフ」の貧困化が進んでいる。同時に、子どもたちは「無援社会」と言われるが、共同的な生き 方から切り離され、競争を強いられる社会がますます進んでいる。競争と格差を強いられ。それは自己責任だと。早期英語教育に競うように通わせ、最近では、 就活に勝つための親の本なども出版されている。

「お かしい」と思いつつもそれを生きていかなければならない若者たちはそれを内面化せざるをえない。「親の笑顔、教師の笑顔が怖い。そぐその裏に怒りが見え る。これはわなだ。自分もいつ裏切られるのか。だから信用しない。」。「授業中はみんな無視されているからよい。しかし、休み時間になると怖い。」と。す ぐそばにいながら共にいると思えない社会的な孤立状態になっている。

なぜそうなのか。子どもや若者たちが社会系形成の主体として扱われていない、排除され孤立しているからだ。だから「シャカイ」をつくる。コスプレは自分の身体を秘密基地にして、自分自身を守っているのだ。アルバイトの関係で人間形成する若者もいる。

彼らは生きる場所、居場所を求め、作ろうとしている。子どもや若者たちのいろいろな表現の中からそれをくみ取る必要がある。

生きる場所、居場所をどう作るかが教育の課題だ。それは、当事者の声、当事者の自治に支えられているものでなければならない。それは、社会を作っていく子どもたちの権利を保障することである。

「毎日の教室が地獄」だという子どもたちが「ここなら生きていける」と思えるようになること。それが、私たちの教育実践の根っこにあった、これからもあるべきではないか。3.11が、これはっきりさせた。

平 等に誰でも「生きる場所」「居場所」を提供されること。それは、「ケア」のの考え方。「弱者優先原則」が必要である。少数者に金を使うのは無駄だというよ うな論理を乗り越え、カネをかけて障碍者や少数者、子どもを救うことを優先する社会。そこにコストをかける社会こそが、すべての人の安心が拡大する社会で ある。

災害をきっかけに、安心して生きられる場所を築く必要があることに改めて気づいた。

社会の作り方、他者とともに生きる術を「アート」という。若者たちはマニュアル通りに行動することで身を守っているが、お互いの尊厳を認め合う関係性を作るために、そこにあなたがいることは知っているよ、というメッセージを伝える「アート」を伝える必要がある。

個々のシェルターで生き残るか、ケアしあえる社会を作るか。どんな社会を展望できるのか。

学校の中で子どもたちが「社会」を作れているのか。そこがいま教育に問われている。

 

夜の「教育フォーラム」 「貧困・格差は子どもたちから何をうばっているのか」

2011_0819教育フォーラム「格差・貧困」「学校にかかる費用くらいは自分で払いたかったので、親の反対を押し切ってアルバイトしながら定時制高校に通っている。しかし、突然職場を辞めさせられて、学費を4.5万円滞納してしまった。次の職場を見つけたがそこも突然辞めさせられ、6万円滞納。現在はコンビニでバイトして滞納分は支払った。働く意思はあるのに、働く場所がない。」

「友人の中には、対人恐怖症で働けなかったり、酒癖の悪い父親の母親に対するDVで苦しみ、自分が悪いとリストカットしたり、薬に頼ったりする人がいる。母親が精神的な病で、その治療費をねん出するために給料の高い夜の仕事しか選べず、定時制に通えなくなった友人もいる。」と定時制生徒の報告。

「給食が栄養源という子ども、検診を拒否する生徒がいる。歯科検診を受けると治療に通わなくてはならなくなる。その治療費が払えないのだという。」と養護教諭。

「英語を習わせないと、と焦る母親が多くなった。「平等なんかあり得ない」という母親も。格差を受け入れざるを得なくなっている。」

「授業料は無償化されたが、修学旅行に行けない生徒、制服、体育着、実習費を払えない家庭が多い。障害をもっているが保護を受けられないので働かなければならない、食べるので精一杯で子どもに手をかけられない家庭も。葛飾では、就学援助を受けている家庭が4割。そこから漏れた家庭が滞納しているという。勉強のできる環境に育っていない子どもたちが多くなっている。」とPTA会長をつとめる父親。

「日本では教育費は家族依存、受益者負担。子どもから見れば、親に頼らないと生きていけないということであり、屈辱的なことでもある。また、日本では社会保障制度が所得の再分配になっていない。カネのあるところから税金をとれていないし、国保料などの国民負担分がが高すぎるのだ。学生も、大学にくるまで格差について考える授業を受けたことがない、という。自己責任、本人が悪いと思い込まされてきた、と。自己責任論を覆す教育のありかたを模索する必要がある。」

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